『人間自身 考えることに終わりなく』池田 晶子 著

『心』 - 人間性を磨く

以前に、私の父は59歳で亡くなったと書きました。それ以来私自身も59歳には自分も死ぬんだ、だからいつ死を迎えても悔いのない人生を送ろう、そのために一分の無駄もなく、自分のやりたいことをやり切ろう。。。そんなことを考えながら、生きてきました。

「死」とは、何か。そんなに哲学的な思考をするタイプではありませんが、時にはそんなことも考えてみようかと手にしたのが今日紹介する、池田 晶子さんの『人間自身 考えることに終わりなく』です。

あまり小難しいことを言うのは好きではないので、少しだけ自分に刺さったフレーズを紹介したいと思います。

 

生死の本質など、幼い子でも勘がよければ直観している。年齢も経験も現在の状況も関係ない。生死することにおいて、人は完全に平等である。すなわち、生きているものは必ず死ぬ。

本当の奇跡は、自分というものは、確率によって存在したのではないというところにある。なるほどある精子と卵子の結合により、ある生命体は誕生した。しかし、なぜその生命体がこの自分なのか。その生命体であるところの自分は、どのようにして存在したのか。これはどう考えても理解できない。なぜこんなものが存在しているのかわからない。だから、奇跡なのだ。なぜ存在するのかわからないものが存在するから奇跡なのだ。なぜ存在しているかわかるのなら、どうして奇跡でありえよう。存在するというこのこと自体が、人間の理解を超えている。

癌も心不全も脳卒中も、死の条件であって、死の原因ではないと言った。生きている者は必ず死ぬ。すべての人間の死因は生まれたことであると。

素直に考えれば、そもそも存在しないものが、生まれることができるはずがない。生きていないものが死ぬはずがないのと同じことである。その意味では、存在するから生まれたのだということはできる。存在が生の原因である。従って、死の原因も存在にある。

生きているでも死んでいるでもなく、ああ存在しているな、とこういう感じである。自分が誰であるかなど、とっくに忘れている。ただ全ては存在しているな、なんだ何にも変わらないじゃないかと。

正直言って、こういうのは、学生時代は嫌いでした。屁理屈というか、自分の考え方というか、言葉に酔っているだけなのではないか、と。年を経て、理解できるようになったか、というと、私自身は、単細胞、今でもこのような思考回路ではありませんが、このような考え方もあるのだ、というのは、理解できるようになったと思います。

人間の本質は自由である。不自由になるのは、自らを属性と思い込む以外に、理由はない。これは理屈じゃなくて、ひょいと気がつくだけのことである。

「男」「女」というのは、あくまでも一般概念としてのみ存在するものである。「男」一般「女」一般という人間が、この世のどこに存在するか。存在するのは、個々別々の男と女だけである。個々別々なのだから、考え方も個々別々である。男はかく考える、女はかく考えると、一般化して言える根拠がどこにある。

これは、なるほど、と思いました。「無意識のバイアス」、これが思考も行動も、制限している。リミットをかけてしまっている。どうやって、そのバイアスを解き放ち、素直に、あるがまま、を観察し、受け容れることができるか。(もちろん、その上で、それを是とするかどうかは、別問題)

ほとんどの親は、わが子を教育する際に、自ら気づかず自分の欲望や不安を投影している。「ああしろ」「こうするな」というのは、自分の欲望や不安の表明以外何ものでもないのである。子供は敏感だから、それを素直に受け入れると同時に、その嘘を見抜く。親は自分ができていないことを、親心の名の下に、私に要求しているな、と。

もし私が親ならば、何を教育するでもない。そのような世の思い込みをいかにして見抜くか、それだけを教育する。人間は思い込みの動物である。思い込みこそが人間を不自由にする。あらゆる思い込みを見抜き、絶対自由でありなさい。そしておのずからなるところの人間になりなさい。それこそが、こんな世の中でも、幸福である人生だ。

教育の目的を、人生のためと子供に教える人は、人生とは何なのかを知っていなければいけない。知らずに教えているのなら、自分は知らないということを知らないのである。実際、多くの大人は、子供より先に生きているから、自分の方が人生を知っていると思っている。これはウソである。彼らが知っているのは「生活」であって、決して「人生」ではない。生活の仕方、いかに生活するかを知っているのを、人生を知っていることだと思っている。そして生活を教えることが、人生を教えることだと間違っているのである。しかし「生活」と「人生」とはどちらも「ライフ」だが、この両者は大違いである。

生きるとは何なのかを知らない大人は、単に先に生きているだけであって、何を知っているわけでもない。このことを知っているから、私は子供に教えたりしない。教えるのは、自分がいかに知らないか、これだけである。

これらの言葉は、格言だと思います。そして、子どもに対してだけでなく、他者に対しても、同じではないか、と。組織の中で、リーダーを目指すのであれば、同じことが言えるのではないかと思います。「ファクト」と「解釈」「感情」を切り分けて、理解する。思考や行動に制限をかけている「思い込み」を、どうやって解放して、「新しい自分」にチャンレンジできるか。

天才というのは、他でもない「当たり前のことを発見する能力」のことだ。

天才のすることは、常人のような意味での「迷い」がない。自分のなすべきこと、行くべき道が、はっきりと見えている。しかし、いやだからこそ、それは大変なことであるに違いない。評価の基準が外にあるというのは楽なことだが、彼らは自らが自らに下す評価しか信用しないはずだからである。とにかくわずかでも先へ進むこと、そういう孤独な自己精進が、おそらくは天才の人生だ。

食うことを無関係とするところにこそ、本来の覚悟がある。食える食えないは関係ない。生きるか死ぬか知ったことか。自分はどうしてもこれがしたい、これしかできない、だからこれをするのだ。このような心構えをこそ正当に「覚悟」と私は呼んでいる。

仕事に対する尊敬である。 仕事が目的だ。より良い仕事、より良い作品のために、さらなる精進を重ねるその人は、自らの内面しか見ていない。あるいは自らの内なる「神」を見ている。仕事は神へのささげモノなのだ。自身の仕事に対する尊敬だけで、一生涯自己精進を続ける「職人」という種類の人々に、私は「プロフェッショナル」の本来を見る。

これらも、格言です。別に、「天才」を、「プロフェッショナル」に置き換えて、いいかなと思います。他人ではない、「自分軸」。「自分の内なる声」。これを突き詰める。リーダーシップに必要な要素なのではないかと思います。

人間が動物と異なるのは、知性を有するからである。知性とは、知るために考えるもの、より賢く生きるためのものである。ゆえに、知性の正しい使用を教えることが、動物でない人間におってなされるべき真の教育なのである。

人間というのは、より賢くなるために生きているのであって、より馬鹿になるために生きているのではない。それは誰にも当たり前のことのはずだと深く思い込んでいた。しかし、違った。実に多くの人間が、堕落する。続々と堕落していく。

人間は堕落する。最後まで一貫して変わらない、最後まで変質しない人間の方がいかに稀有なのかということにも、同時に私は気がついた。晩節を汚すという所業もまた人間には可能だからである。死ぬまで人間には道を誤る可能性があるのだ。それはなぜ可能か?当たり前だが、これは裏返し、自分の道を見出していないからである。あるいはまた裏返し、自分の道はこれでいいのかと、自らに問うことを辞めたからである。道は決して自明なものではない。だからこそ常に自らの道を問うことで、人は自らの道を確認するのだ。

やっていいことと悪いことのけじめは、外になんぞない。倫理は内在的なものでしかあり得ないのである。

私は、一度きりの人生、楽しく、幸せな人生を送りたいと思っていますが、それはつまり「自分に甘くすることではない」。そこをはき違えてはいけないな、という大きな戒めを最後にもらいました。実に、学びの多い、1冊であったと思います。

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